CAPE FEAR RELOAD

 永い懲役を終えて出所した元レイプ犯が裁判で不利な証言をした弁護士一家に執拗な嫌がらせを続け、正義の失墜に満ちたりるという映画、それが1962年作「恐怖の岬」である。名優グレゴリー・ぺック演ずる父権を象徴させたかのような頑強さと脆弱さを持つ弁護士、そして腫れぼったい寝惚け眼のロバート・ミッチャムの、前年「狩人の夜」で見せた粘着性を更に増量、ヌメヌメ肌の爬虫類質パラノイアとのスリラー対決は、バーナード・ハーマンの恐怖劇伴も冴え、ハリウッド変態娯楽映画集の中でも上位に位置する作品である。その二十年後にリメイクされた「ケープ・フィアー」は、監督のマーチン・スコセッシによる手堅い演出とレイプ犯を演じるロバート・デ・ニーロの濃厚な南部訛り演技が効を奏した佳作であるが、しかし前作のミッチャムの怖さには到底敵わぬ。
 しかし故意にか、それとも単にありふれているだけなのか、パラノイア犯罪者を演ずる俳優の名が「ロバート」である一致と、公開当時アメリカTV界を席巻していたダークソープ「ツイン・ピークス」の悪の権化の名が「ロバート」の略称「ボブ」であるというピーカーらの指摘通り、その暗合はアメリカ大陸に住む者だけがその血で感受出来る曖昧の叙情なのであろう。デヴィッド・リンチが処女作から、忠実に丁寧に歴史構築してきたアメリカの「暗黒心」叙情の集大成が「ツイン・ピークス」であるのは間違いない。しかしそれが家庭内、或いは限られた時間と空間で分断された主題の重層故に、異邦人には容易に体感出来ない歯痒さよ、これを越えて後にようやく、世界の外側に直面する作品「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライヴ」を楽しめるのだから。だからこそリンチはわざわざローラ・パーマが死ぬ前まで時空を戻したり、老人が運転するトラクターで世界の外側へ緩慢に旅立ったりして、皆が追いつける時間稼ぎをしていたのに甚だ無念である。
 数年前、音楽タームの一つとして現れた「アメリカンゴシック」とは、上記の暗黒心と双子のような存在であるのだが、それを説明するに相応しい挿話を一つ。1960年代も半ば、アメリカは北東部、ニューハンプシャーにあった音楽一家、ウィギン家は、いつも楽しい音楽と笑いの絶えない朗らか家族でありまして、そこに育った三姉妹、違う事無く大の音楽好きで、娘思いの父親が彼女らに買い与えたのはギターにドラム、三人三様、見よう見まねで演奏するが、これが何とも、下手の横好きなどと言って済ませられない腕前で、しかしそれでも頑張る娘らを見て、親父訳無く熱くなり、「鉄は熱いうちに打て」ならぬ「ブタは今が旬」と言ったか知らぬが、青息吐息でヘソクリ捻出、娘達の演奏一式スタジオ録音、時は風雲急を告げる1969年、遂にファーストアルバムは堂々完成、ご近所さんを前にしてデビューを告げるも閑古鳥、言わずもがなでその後は、家族で細々営業続け、時には押し売り同然で、レコードを売り捌く日々も十年余り。ところが1980年、プレイボーイマガジンでフランク・ザッパが大絶賛するや否や、続いてジャズ界からカーラ・ブレイが、更にパンク姐さんパティ・スミスが絶賛の顛末に現在に至り、さてこの詳細な与太話、極東の目玉親父まで知っているというまさしく怪談シャグスの巻で御座いましたが、此れ即ちアメリカンゴシックの一つの神話である。言っておくがロウファイやスカムの視点を持つ者にシャグスの素晴らしさを語る資格は無い。また音楽性を形容するに「産地直送」も「音楽の原子」も的確為らず、全てがマヤカシである。「目の前の鏡で遠くに居る自分の顔を覗き込んでしまった」といったマジックリアリズム的怪談こそがシャグスの本質なのだ。つまり慄然である。